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みるようによむ(Japanese only)

以下は、国語教師時代、当時勤めていた高校の図書部に求められて寄せた文章です。今読んでも、書いたその時と同じ気持ち、いや、異国で生活している分、より一層、ここに書いた「文字の配列の美しさ」への関心が強くなっています。翻訳者として言葉と向きあう現在、ここに書いた「みるようによむ」姿勢、「文字の配列の美しさ」に気づける感性を特に大切にしていきたいと思っています。

みるようによむ

雑誌などのインタビュー項目で、「無人島に一冊だけ本を持って行くとしたらどの本を持っていきますか」というものがありますが、もしみなさんが同じ質問をされたとしたら、そのとき、一体どういう基準でその「究極の一冊」を選びますか?

 

ほとんどの人は、その本のプロットとか、またはその本にまつわるエピソードによって選ぶのではないかなと思います。本を読むことの目的は、何かを知るということだけでなく、その本を読んだとき(&あと)にやってくる気持ちを味わいたい、ということもあると思います。繰り返し読む本や、いつもただそばに置いておきたい本、無人島に持っていきたい本というのは、会えばいつもあったかい気持ちにしてくれるともだちや、行けばぜったいにほっとできる喫茶店や、必ずなにかわくわくすることに出会える場所みたいな、そんな存在である気がします(こういうのは、本だけじゃなくて、音楽や絵画もそうだと思います)。話をもとに戻すと、無人島に持っていく本というのは、そういう風に、自分がこうなりたいという気分をもたらしてくれる魔法の薬みたいなものだと私は思います。

 

 私は、無人島にはまだ行ったことがありません。が、「究極の三冊」を選んだことはあります。2002年8月24日、日本を発ち、翌年の8月23日までアムステルダムで過ごしました。生まれて初めて海外で過ごす一年間に、私は持っていく日本語の本は三冊だけにしようと思いました。そのときに選んだのが、太宰治『女生徒』、『斜陽』そして向田邦子『父の詫び状』です。引き払うアパートのがらんとした部屋の本箱をひっくりかえして、あれこれ選び抜いたうえでの三冊でした。

 

 私がこの三冊を選んだのはプロットもさることながら、文体、とりわけ太宰においては字面というか言葉の選び方、文字の配列がとてもとても好きだったからです。

 

「朝、食堂でスウプを一さじ、すっと吸ってお母様が、

『あ』

と幽かな叫び声をおあげになった。

『髪の毛?』

スウプに何か、イヤなものでも入っていたのかしら、と思った。

『いいえ』

お母さまは、何事もなかったかのように、またひらりと一さじ、スウプをお口に流し込み・・」

 

 冒頭における、この文字の配列の美しさが、私はたまらなく好きです。ひらがなとカタカナと漢字の絶妙なバランス、選ばれている言葉の表記の美しさ…「食堂」「スウプ」「一さじ」「ひらり」…「台所」でも「スープ」でもなく。

 

 また、『女生徒』に収められた「おさん」の冒頭、

 

「たましいの、抜けたひとのように、足音も無く玄関から出て行きます。」

 

この、読点の配置の美しさ。

 

 本を読む、ということは、文字を追うことでプロットを楽しむだけでなく、そこにある文字そのものを愉しむことでもあると思います。もともと私は文体や文字の並びが醸し出す空気感を感じるのがとても好きだったのですが、異国の言葉が飛び交い、自分も異国の言葉だけで日常を送る生活のなかで、改めて、自分の大好きな文字の並びに出会ったら、自分はどんな気持ちになるのだろう、それから、アムステルダムでの一年では努めて日本語に触れないつもりだったので、触れあう日本語を自分のとても好きな言葉の並びだけにしたい、そんな意図をもってその三冊を選んだのでした。

 

 この三冊は、その後幾つかの引っ越しを経た今も部屋の本棚に並んでいます。月の明るい夜、明かりを暗くして、そっと頁をひらきます。いつ見ても何度みても、そこに並ぶ言葉はうつくしい。みなさんも時には「文字をみるように」、本を読んでみてはいかがでしょうか?

 

18年前、広島のアパートで選んだ三冊のうち、現在、オーストリアの本棚にあるのは一冊。太宰治『女生徒』です。今ページをめくっても、初めて出会った時と同じ、心がしんとする美しさを感じます。今宵、月は見えませんが、部屋の明かりを少しおとして、大好きな文字の並びに再び出会いたいと思います。